ふっと、彼の息遣いが私の耳にかかる。髪をくしゃくしゃにしながら、彼が私の頭を抱く。


キスをされる。噛み付かれたみたいに、荒っぽいキスだった。

私が必死に応えようと思っても、それよりも凶暴に彼の舌は動いた。

空気を求めて私が唇を外すと、彼は私の頬に唇を這わせる。そのまま、耳をぺろりと舐められた。


今ならまだ間に合う。彼の胸に手を置いて拒否のサインを示せば、きっと彼はその手を止めるだろう。

けれど、私はそれをしなかった。


彼にぎゅっと抱きしめられたら、もう私の逃げる術はなかった。


服を捲り始める彼の手の温かさに目を瞑って、金魚鉢の中でただ泳がされている小さな魚の姿を思い浮かべた。

金魚みたいだ。

餌を求めて口をパクパクとしているみたいに、私もきっと彼の体温が手放せないのだ。



マイの顔が頭に浮かんだ。彼女と彼の娘の顔も。

きっと今、私の牧場から彼が新鮮な野菜や乳製品を安く買って帰ってくるのを、暖かな部屋の中で待っているのだろう。

彼女のビー玉のようなの瞳の中に、彼の姿がどのように映るのか私は知らなかった。



ひどい罪を犯しているはずなのに、私の心は麻痺してしまったのか、

ただ彼の体温が、私のすぐ傍にあることしか考えたくなかった。




ゆっくりと溺れていく。

金魚鉢の中でしか泳げない金魚みたいに。ただ、口をパクパクと喘いでいるだけだ。



それだけで、彼は私を求めてくれた。








。。。 。。。









「アカリ。」


私は、けだるい身体をゆっくりと彼の方に向けた。すっかりズボンとシャツを着た彼は、何食わぬ顔で私の顔を覗き込んでいる。

まるでこの部屋で起きたことは、すべて私の夢の中で起こったことだったのではないかと思えるほど、チハヤはすました顔をしていた。

少しだけ乱れた髪を手で撫で付けて、今日会った時と変わらぬ位置に髪留めをきちんと止め直している。

ただ、いつもはアカリさんと呼ぶその声だけが、私達だけの秘め事を真実にしていた。


「もう帰るよ。すっかり遅くなっちゃたから。」

「あ、そうだね。」


時計を見ると10時を過ぎていた。彼が私の家に来てからすでに二時間も経っている。


「・・大丈夫?」

「平気だよ。・・・そうだな、アカリん家の電球を換えてあげてたとか。理由はいくらでも見つかるよ。」

「最低ね。」

「君こそ。共犯者だろ?」

「・・そうね。」



私はだるい体を無理やりベッドから引き剥がすと、

何も身に着けてない身体に、ベッドの脇でくしゃくしゃになっていた衣服を拾い上げて適当に身に着けた。

ベッドを囲むように散らばった、つい先ほどまで自分の皮膚に張り付いていた衣服たちを見ると、私はなんだかやるせない気持ちになった。


何度も繰り返してきた行為の中で、この一瞬だけ、私が過ちを犯していることに気づかせてくれる光景だった。

後何回、こんな不毛なことを繰り返すのだろう。そんな思いが私の頭の中をよぎったけれど、私はその思いに気づかないふりをした。

だって、彼の腕に抱きしめられたら、私はきっとまた、金魚になってしまうのだから。





「これ、忘れないで。」

「そうだった、ありがとう。」


私が差し出した食材をチハヤは嬉しそうに受け取った。

私の家にくる口実の目的であった食材たちは、ビニールの袋の中で静かにうずくまっている。

この食材を私が育ててなかったら、チハヤは私の家には来なかったし、私とこういう関係にもならなかったのだろうか。

ふっと思った考えが恐ろしくて、私は一瞬ぎゅっと目を瞑った。



「じゃあ、またね。アカリさん。」

玄関のところで、彼の口調はいつものアカリさんに変わった。

それはひどく自然で、無理がなかった。

きっとそれは、私達が共有する時間の方が異常だからなのだろう。



「うん、また。」


私も、いつもの口調に戻っていく。自然に、かつ無理がなく。彼のことを決してチハヤとは言わない。

みんなの前で私は、滅多に彼の名前を出さない。

本来、彼のことをなんて読んでいるのか思い出せないくらい昔から、私は彼の名前を人前で言ってなかった。


去っていく彼の姿は見送らなかった。だって、もう私と彼は元の関係に戻っているのだから。

そして私は、また金魚になる日を、心のどこかで心待ちにしている。

そんな自分がひどく浅ましくて、腹立たしくてたまらなかった。

それでも、金魚は口をパクパクさせながら、濁った水底を泳ぎ続けている。









。。。 。。。








その日、私はひどく気分が悪かった。


たいして働いているわけでもないのに疲れていて、それでいて胃がむかむかした。

身体の中がひどく不安定で、ふわふわと感じの悪い浮遊感がずっとお腹の中に存在していた。


朝ごはんが食べれなくて、かろうじて食べた昼ごはんのクロワッサンはすぐに吐き出してしまった。

まさかとは思ったのだけれど、クリニックに行く勇気もなくて、その日一日私は毛布を被ってベットに潜りこんでいた。

真っ暗な視界の中で、ぐるぐると回る気持ちの悪さがお腹の中から消えていかなくて、ひどく心細かった。


ふわふわとした浮遊感は、ベッドに潜っていても、目を瞑って眠りに落ちていてもずっと続いているようだった。

本当に金魚になったみたいだ。このまま、ずっと誰にも気づかれずにただ水底を泳ぎ続けるのだ。








「アカリ。」


一瞬、空耳かと思った。だって、いるはずなんてないのだから。

今日は、約束なんてしていなかったし、気まぐれな彼はこんなに立て続けにここに訪れることなんて今までなかったから。


けれども、わずかに開けた瞳の先にいたのは、紛れもなく彼だった。




「・・・どうして?」

「鍵が開いてた。どうしたんだい?具合悪いの?」


きゅっと、胸に締め浸かられたような痛みがはしった。

彼だけには、絶対に明かせれない痛みだった。



「・・ちょっと、寝不足だったの。」


彼は、嘘に気づくだろうか。

私は、そろそろと言葉を吐き出しながら、いかにも眠たくてたまらないというような表情を作った。


彼はきゅっと眉をひそめた。私は、嘘がばれたのかと思って、胃がきゅっとしめつけられた。

けれどもそんな私の思いとは裏腹に、彼はただ純粋に私のことを心配してくれていた。


「よく眠った?」

「うん。・・・でもごめん、今日は帰って。まだ頭が痛いから。」

「傍にいるよ。」


彼が私の手に絡ませた指は、やはり温かかった。

この体温だけが欲しくて、私は彼を求めたのだったと、初めて受け入れた日のことを一瞬思い出した。

なにを言って、どんな行動をしたから、彼に抱きしめられたのかは覚えていない。


ただぎゅっと、力いっぱいでも遠慮がちにでもなく、抱きしめられて、動けなくなって。

彼の本来持っている温かさに溺れてしまったことだけは覚えている。

やっと酸素を見つけて口をパクパクさせる金魚みたいに、私は彼を受け入れたのだ。


その温かさを、今手放そうとしている。

そうしたらまた酸欠になってしまうのは分かっているけれど、でも、もうこれ以上水底を泳いでいる金魚ではいけないのだ。

わたしは、握られていないもう片方の手で、そおっとお腹をさすった。布団に阻まれて、彼からはその行動は見えていないだろう。


「いいの。ほら、あまり私の家に来過ぎたら、マイが疑い始めるわ。」

「マイは、これぐらいじゃ気づかないよ。」

「女の感は鋭いのよ。」


「ははっ、はいはい。じゃあ、本当にお大事にね。」

軽やかに笑いながら、彼が額を撫でてくれた。

きっと、きれが最後の彼の温かさだ。そう思いながら、私は緩く微笑んだ。


「・・・うん、ありがとう。」



「じゃあ、アカリさん。鍵閉めておくんだよ。」



最後まで、彼の言葉は優しく私の耳をくすぐると、後はただ静けさだけが残った。

彼の残した空気を求めるように、私はそっと深呼吸をした。

むかむかとしていた気分が少しだけ治まった気がするのだから、なんて現金な女なんだろう。


今こそ、彼に思い切り抱きしめて欲しかった。骨が砕けてしまうくらい、力いっぱい抱きしめて欲しかった。


お腹をもう一度さすってみる。ゆるい動きを上下に何度も繰り返して、私はそっと息を吐き出した。

女の感は鋭いのだ。きっとこれも、間違いではないのだろう。


涙が出そうになって初めて、

私は泣くことも、ましてや彼に抱きしめてもらう資格さえ持っていなかったことに気づいた。



もうきっと、彼は私を抱きしめてはくれないのだから。そうなるように、私は行動するだろう。

お腹をもう一度さすった。微かに、金魚が泳いだ水がはねる音が聞こえた気がした。

きっと、それが私達の別れを意味しているのだ。


間違いを正すための、確かな道を私は選んだのだと思いたかった。

なのに、胸から溢れてくるのは、彼の温かさを求める思いと、寂しさで押しつぶされそうな気持ちばかりだった。



また、涙が出そうになるのを、慌てて目を瞑ってこらえた。


冷たく暗い視界の中で、微かに聞こえる風の声が、寂しく鼓膜を震えさせた。










せめて、生まれてくる赤ん坊の瞳が、葡萄色ではありませんように。



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